ハンカチーフについて ハンカチーフについて

 

ハンカチーフの思い出

ハンカチーフの思い出やちょっといい話。
お一人おひとりの、心温まる様々なハンカチーフにまつわる思い出を
アトランダムに紹介いたします。す

『子供たちと玉ねぎの皮で染めたハンカチ』

親子でこどもエコクラブ(環境省)活動。熱の出かかったアース君(地球)を元気にする活動。親子で地球温暖化防止活動の一環とし て、子供たちの大好きなカレー等の調理時に出る玉ねぎの皮、色止めにミョウバンを使って草木染をしました。どちらも自然にやさしい台所に流しても大丈夫な素材です。玉ねぎの皮はゴミとして処理をしますが、ちょっとしたアイデア・工夫でゴミも資源になることを伝えました。分かりやすい身の回りのエコに気づいて、エコロジカル・ライフへの導入になる1つのツールです。
染め上がった色々な模様の黄色いハンカチが、1面に並んだ様は壮観です。子供たちの将来は緑豊かな地球が創造でき、私にとってはとっても嬉しい、幸せな時間でした。いつも活動の時に出会う子供たちに元気をいただいている、私には大切な、有意義な幸せな時間です。子供たちと一緒に作った思い出のハンカチです。 神戸市 くろちゃん様

『大切なもの』

足早に思えた美しいホテルでの宝石展を終え、ホッとしていたところ、また特別に輝かしいお二人のレディのコーディネーターの方から思わぬ贈り物を頂き、はかりしれぬ大切な仕事の結びつきを感じています。今もこのきれいなレースのハンカチを良い思い出にしています。 堺市 アンベール デザイン CHIKAKO様

生徒のプレゼントです。「先生の声って子守り歌みたい」と言われつつ、高校で古典を教えていますが、ある生徒が、「これを見たら先生を思い出した」と買ってきてくれたのです。「『源氏』はわからないけれど先生が『源氏』を好きなのはよくわかった」とも。
こんな嬉しいことがあるので先生ってやめられません。私の宝物で元気の素です。 神戸市 石原様

去年の今頃、私は重い目の病気で手術をし、病院のベッドの上でした。左目にアルミの眼帯をつけ、まるで海賊のフック船長。頭はゴマ塩の哀れな姿。一ヶ月もの入院生活。みっともない姿を見やすくする為に、私は娘のハンカチでネッカチーフをしていました。「バンダナしてるの?」と看護婦さん。いつまで経っても見えない。部屋の人は次々と退院していく。あの辛く悲しかった日々。
今、そのハンカチは穏やかにタンスに収まっている。
〝ありがとう〟
神戸市 井上様

『お気に入りのハンカチ』

五〇年近く前、服飾の勉強の為、東京で学生生活を送っていた私は、デザインの勉強目的で、デパートの中を見て歩くことがよくありました。そんな中、日本橋の高島屋で、花が咲いたように色とりどりのハンカチがディスプレーされているのを見るのが好きでした。
先日、其方の美術館で、素敵なハンカチの数々を見ていると、私が就職して、やっと自分で手にすることができたお気に入りのハンカチと同じものが、展示されていたのでびっくりしました。色褪せてしまってますが、洗ってアイロンをあてては、大切に使ったものです。 神戸市 藤永様

これは、一九七八年に私がアメリカの空調会社キヤリアでの研修中、あるパーティーで使ったスワトウ・ハンカチです。
和服にもよく似合いました。
尼崎市 溝口様

このハンカチは、白生地の分をはじめて自分で屋久杉の皮から染めつけました。
着物屋さんでそのキャンペーンをしてまして、簡単な輪ゴムでくくり、茶色の液体につけ、そのあとお酢を薄めたものの中に一時間ほどつけ洗い、乾かしました。
一つ出来ると、このようなハンカチを色ちがいですると楽しいと思いました。一ヶ月前の作品です。これからこの作品にはまりそうです。
神戸市 中西様

『ハンカチ王子 あの感動の一枚』

夏の全国高校野球のマウンドより、たくさんの人々に感動を与えてもらいました。
女性自身の雑誌社より、「中古品ですけど八枚必死でゲットしました。プレゼントします」とあり、応募したところ見事に当選。
実は、大の高校野球ファンの母から、大の高校野球ファンの娘にプレゼントしたいと思ったのがきっかけでした。
早実の斎藤佑樹投手の物事に対する姿勢も同時に学んだ気がします。高校野球のマウンドからは、いつも生きる勇気をもらっています。
大切なハンカチになりました。ありがとう!
神戸市 寺口様

桐のタンスの中で目にとまったのが、このハット型ボックスに入ったハンカチ。
一九六二年のクリスマスに四才年下の妹政子からのサイン入りで手つかずのままです。サインを入れておくことは有意義ですね。スイス製のローン地で、多分、高島屋の〈サロン・デ・ローズ〉で買った記憶があるそうです。
三人姉妹で妹も姉も持っていて、亡姉のは一枚使って抜けているそうです。妹がクリスマスに姉二人にプレゼントし、自分のも買ったようです。
四六年前、未婚の二三才の時、日本でもクリスマスにプレゼントを贈るようになった頃の貴重な思い出のハンカチです。
豊中市 小林様


三人姉妹で集まった時などに、何か共通の品を持っているのもいいねと話が弾み、一番軽くて持ちやすいハンカチを一番下の私が選びました。どこへ行くのにも必ずバッグの中に入れて持ち歩いて居ります。
今は、その姉達も亡くなり本当の思い出のハンカチになりました。 姫路市 坂本様

一九五三年頃、兵庫県立柏原高校のESSクラブにいた頃、ESS内より紹介いただいたペンパルのバート・ローダー(Bert Lorder)さんからプレゼントされたものです。彼は、カナダのオンタリオに在住していた銀行マンで、しばらく文通していました。
今と違い、色彩と柄の感覚をすごく斬新に思い、感動して大切にしていた物です。 神戸市 匿名希望

小学生の頃、徳島でプロレス興行があったからと、鳴門に住む祖父からもらったハンカチです。お礼は言ったものの、プロレス・ファンでもないのに「なにこれ?」という気持ちでした。友達の前で広げるのも恥ずかしく、引き出しの奥にしまったままずっと使いませんでした。
祖父が亡くなって二〇年。このハンカチを見ると、一年に数回しか会わない孫のためにわざわざ買っておいてくれた祖父のことが思い出されます。これはいつまでも使えない大事なハンカチです。 明石市 匿名希望

『黄水仙の前の黄色いハンカチ』

広島のひなびた山村に、私の叔母は住んでいた。
「先祖を大事に。質素を旨とする生活をせよ。子供はこの世で一番の宝物だから、大事に育てよ」が口癖だった。近所でも有名な働き者で、昼は農作業に精を出し、夜は縫製の仕事をした。借地に自分の家が建っていたので、その借地を買うために昼夜の区別なく働いていた。
やっと借地を自分の土地とした時には肝臓を悪くして、入退院を繰り返していた。退院してきた時も、我が家へは、季節の旬の野菜や果物を届けてくれていた。叔母は我が家の墓守りもよくしてくれており、在り難いことだった。
その叔母が退院し、身辺整理をし、自分の墓地まで購入し、あっけなくこの世を去った。私は驚嘆し、泣いた。突然の訃報にただただ驚いて泣いた。
去年の春、我が家の墓参りをした時、墓の前に一直線に黄色のラッパ水仙が咲いていた。叔母が植えていてくれたのだ。花を見て泣き、あふれる涙を何度もふいたのが、このハンカチである。 神戸市 藤井様

一九九九年の夏になりますが、友人との旅行で四国に行きました。海、山、岬と四つの県を初めて見て、自然や濃い緑の美しさに感動しました。
今年に入り、道後温泉で本館の改修工事があるとのニュースを見ました。お土産として売られていて色合いと全体の雰囲気を気に入って自分にと購入しました。想い出の多い、懐かしい一枚の青いハンカチです。 渡辺様

このハンカチの思い出は、私が四歳の時にピアノを習いはじめた頃にさかのぼります。
一週間に一度のレッスンでしたが、上手になるためには日々練習・・・。なかなか合格がもらえなくて、悔しかったことも、そして時にはめんどうくさくなって練習をさぼったことも・・・。
それでも一つ楽しみがありました。それは四~五冊ある練習本の中から合格をもらった数だけカードにスタンプを押していけるというもの。そしてそれがまた、なかなかたまらないのですが、全部ためるとハンカチがもらえたのです!そう、その時はハンカチ欲しさに練習していたのでした! そしてこのハンカチも、そうやってゲットした一枚。
それでもそんなお楽しみがあったおかげで、今でもピアノは大のお友だち☆
ずいぶん色あせてしまっているけど、私もいつか子供を持った時に使ってくれたらいいナと思って(ハンカチを何世代にもわたって使っているなんてあんまり聞いたことがないけど・・・)、大事にしまっていたのでした。このような機会のおかげで小さい頃を振り返ることができ、ほんの少しタイムスリップしたような気持ちになりました。 箕面市 松下様

これは一九三九年の神戸の水害を知っている。その頃、母の針箱の一番下の抽き出しに入っていた。「娘時代にもらったんよ」と言っていた。
一九四五年、大空襲で焼け出されて岡山に行った。命からがら逃げた時にも、持って出たのだ。敗戦後、“女の子らしい”ものを何も持っていない私に渡してくれた。
一九九五年の地震でタンスが壊れてひっくり返り、中味は泥だらけになったが、ハンカチは無事だった。
母は二年前、九三才で亡くなった。 神戸市 酒井様

私は世界を股に掛ける「旅するハンカチ」。今までに行った国は、ハワイにイタリア、スペインに中国etc。私のご主人は旅好きでちょっとオッチョコチョイな人なの。だから私は、私をスーツケースの取っ手に結んでもらって、彼女が見失わないよう目印になってあげるの。「おぉ~い、ここよ~!」ってね。この黄色い体とクッキーモンスターの顔、とってもユニークで目立つでしょ。空港のターンテーブルで私を見つけてホッとしたご主人の顔を見ると、「シワくちゃにされたりして大変な仕事だけど、次の旅行にもついて行ってあげよう」って、思っちゃうのよね!
神戸市 藤田様

『支えてくれたハンカチ』

お盆に夫の実家に兄妹が集まった時、親戚からおみやげにとタオル地のハンカチを三枚頂いた。一〇才、八才、五才の子どもたちは、ライオンだの象だのが描かれたオレンジ系の自分用の手ふきにとびあがって喜んだ。その親戚からのプレゼントはいつも気が利いていてセンスがよかった。
―こんな素晴らしいハンカチが買えるようになりたい―
離れで仮住まいをしていた私たち家族は貧しかった。洗濯にも強いこのハンカチは、私を奮い立たせるお守りとなった。あれから三〇年。ハンカチに手が届く暮らしになった。色あせても私たちを守ってくれている宝物です。 兵庫県多可郡 市村様

今から七〇年もの昔、サンタクロースから贈られたこのハンカチ。小花の散りばめられた絹のハンカチでした。日常は綿のハンカチしか使用しない為か、子供心にもこのハンカチは大切にと小箱の中にしまって居りました。
今回、思い出のハンカチ募集に、ふと思い出してタンスの中をのぞくと新しいままだった筈が、多くの染みと布の傷みにびっくり致しました。でも、私にとっては、過ぎた永い歳月と共に、幼い日の事を、両親を思い出す何よりの品なのです。 神戸市 稲田様

終戦間なしの、当時女学校一~二年生頃のことです。学校の行き帰りはいつも親友と一緒で、毎日決まって寄るところがありました。何代も続いた古い呉服屋さんの店先きで、多分、海軍の復員兵だと思うのですが、マドロス風のおじさんが布に絵を画いていました。ペンテルというのでしょうか三角に巻いた紙チューブの先から絵の具が絞り出され、美しい絵が画かれるのを毎日毎日ただ黙って見ていたのです。
そんな或る日、「ハンカチを持っておいで」と言われ、翌日新しいハンカチを持っていきました。おじさんは物のない時代に古い着物や帯に絵を画いて、また新しくよみがえらせていたのです。毎日飽きることもなく、その作業を見つめる二人の女の子に、美しい花篭を画いてくれたのでした。
あれから六〇年あまり、半世紀も過ぎた今でもあの頃の光景が目に浮かび、様々な思い出がいっぱいつまった私にとっては大事な宝物のハンカチです。 神戸市 浅尾様

もう、かれこれ三〇年も前、昭和五一年ごろだと思います。三人の子供は、それぞれ六、五、三歳のころです。ほんのわずかな小遣いを三人で全部出し合い、それを持って、三人だけで近くのスーパーに行きました。お財布などを売っている店でこのハンカチーフを見つけました。でも、お金が少し足りなくて、三人はどうしようかと話していると、店のおばさんが来て、「なにに使うの?」と聞いたそうです。子供たちはどきどきしながら、「ママのお誕生日のプレゼント」と言うと、そのおばさんは「そうかぁ、えらいねえ。まけたるわ」と言ったそうです。その買い物自体がすごく彼らを興奮させたようで、「はい、ママ。ハッピー・バースデイ! ハンカチーフだよ」と言って、きれいにリボン結びにした包みを私に差し出しました。そして、その買い物の経過を興奮気味に話してくれました。
「まぁ、ありがとう」と言いながら、彼らの話を聞きながら、その包みを解きました。そして出てきたのがこれです。ハンカチーフよりは高いものでしょう。なによりも私の胸を熱くさせたのは、持っていたお小遣いを全部出した、ということです。計算抜きでママへのプレゼントを考えた、子供の純真さです。それ以来、これをいつもバッグに入れて、使わせてもらいました。もうこんなになっていますので、使うことはできません。今は私の心のお守りです。
ほんの数年前、夫の仕事の関係でフィリピンで生活していました。そこで、ある神父さんからこんな話を聞きました。
「路上で車が止まるたびに、子供たちがやってきてドアをたたき、物乞いします。もらったお菓子を戦利品のように、勝ち誇ったように笑顔で手に取る。でも、後ろで何ももらえず、悲しそうにその場を離れていく別の子供たちを見て、その子は、今もらったお菓子を全部あげました。彼らは、悲しい子には自分の空腹を抑えて、全部あげるのです。よく日本人に、お金はあげたほうがいいのでしょうか、いくらぐらいがいいでしょうか、と聞かれます。そのような時は、あげないほうがいいでしょう、と私は言います。施す心が違うのです」
この話を聞いた時、私はこの大切なハンカチーフを思い出しました。 明石市 井出様

就職した頃、使っていたハンカチです。景気のよかった時、証券会社に勤めていたので、とても忙しい毎日でした。朝早くから夜は九~十時ごろ迄、来る日も来る日も仕事をして疲れて眠る日々。だけど充実していました。人間関係も良好で、尊敬できる人にも多く出会えました。結婚退職するまで無事に勤められたのは、家族、友人、また取引してくださったお客さんのおかげです。仕事中は不満に思ったことも、今、思えば成長の糧になっています。あの時の私がいたから現在の私があるのだと、ハンカチを見る度、思えます。 リンデンバーム様

これは私にとって使えない大切なハンカチです。
私の母は、晩年足を悪くして外出ができなくなり、レース編みが楽しみのひとつでした。何でもない一枚のガーゼのハンカチが、母の手によって白いレース糸で蝶の縁どりがされることで、おしゃれな美しいハンカチに早変わりしました。
一枚、また一枚と仕上がる度に、お友達やお知り合いの方々に差し上げました。どれだけ沢山の方々に貰って頂いたことでしょう。
母が亡くなって気がついてみると、手元に残ったのはたったこの一枚でした。
母が亡くなってから一七年が過ぎました。今もハンカチを見ると母の優しさとぬくもりが伝わって来る様で、懐かしさでいっぱいです。 匿名希望

『一枚のハンカチ』

一年ほど前、娘と息子と奄美大島へ行ったときのものです。社会人になり、それぞれ忙しくしている子供たちと旅をするなど思いもよらないことでした。しかし、〝旅〟といえるものだったのかどうか・・・。
昆虫学を生業としている息子の採集旅行に同行したというのが本当のところでしょうか。彼を山に送り込んだ後、娘と〝泥染め〟の体験コーナーを訪れた時の作品です。ハンカチそのものというより、おそらくもう彼らとあのような旅をすることがないだろうと思うと、「大切な思い出の品」というより、私にとって「貴重品」かも知れません。 匿名希望

十年昔、知人から頂いたパイナップル繊維のハンカチはインドネシアのもの。その知人からの宗教勧誘を断ると「ばちあたるよ」と言われ、私は癌になりました。
でも、罰ではなく褒美です。医師、看護士の方々のやさしさに包まれ、患者同士励まし合った入院生活で人間の強さ偉大さにふれる事が出来ました。
まだなお優雅で美しいハンカチの様に、宗教を信じる知人も信じない自分もリンとして生きていけますように! YOKO様

『紫のハンカチ』

私には、今も脳裏からはなれない一枚のハンカチがあります。
藍染め大好きの私は、やっと徳島の「藍の館」を見学、マフラー染めを体験しました。
「藍染めは何度も何度も空気に触れさせながら、染色液に潜らせ、根気よく染め上げ、綺麗な水で洗い、仕上げるのですよ!」と親切に教えてくださった人が、さりげなく「これは僕が染めたハンカチですよ」とズボンのポケットから出したハンカチ。それは群青色から移行したであろう、高貴で深みのある素晴らしい紫色。「百回以上は、藍染めの工程を経たでしょうか・・・」と。聞けば、草野球の大好きな若きパパさんだとか。
私のハンカチ王子は、今も徳島で、藍の香と共に頑張ってるかナ! 南あわじ市 矢野様

『心の中のハンカチ』

病母の言葉を理解したとたん、胸が詰まって、涙で視界がぼやけました。そんなこと、言わなくてもいいのに。即座に振り向いて、笑顔を見せて、母を安心させてあげたかった。涙は流すものではなく、耐えるものでもなく、飲み込むものだと、この時生まれて初めて知りました。
心の中をそっと吸い取ってくれる
目に見えないハンカチ
どれほど探したことでしょうか。
いろいろなハンカチ
ハンカチはいつもポケットまた心の中に
置いておく事大切です。 尼崎市  滝内様

『思い出のハンカチーフ』

幼稚園生の頃でした。大好きな従姉のお姉ちゃんに自分の好きなキャラクターのハンカチをいただき、とても嬉しくてその日は大事にポケットに入れていました。
帰り道、いつも通る公園の脇の道で、公園のペンキで塗られたコンクリートの壁が汚れているのに、ふと気がつきました。そこで何を思ったか、その大事なハンカチで汚れを拭いてみました。すると、とてもきれいになったのです。なんだかいい事をしたような気分になりました。
でも、そのハンカチは何度洗濯してもシミが残ってしまい、なんであのときお気に入りのハンカチをこんな事に使ってしまったのか、使うたびに切なくなるのでした。
母には「お気に入りのハンカチで公園の壁を拭いたことがあるよね。」と笑いの種にされています。 狛江市 まみんこ様

6年前。ホワイトデーに夫からハンカチを貰いました。それはおしゃれな女性やお花が描いてあるバーバリーのものでした。私はそのハンカチを大切にタンスの中にしまっていました。初めてそのハンカチを使ったのは友達との食事会でした。特別な日はハンカチもお気に入りのものを使いたくなります。友達からも素敵なハンカチだと褒められました。 その後もハンカチは大切にしていたのですが…。気がつくと私はどこにしまいこんだか忘れてしまっていました。ところがこの間、何年かぶりにそのハンカチが出てきたのです。長い間タンスの奥で眠っていたハンカチは、私に当時の思い出を蘇らせてくれました。お花好きの私の好みを考えてハンカチを選んでくれた夫に、改めて感謝の気持ちが湧いてきました。
今週は夫の誕生日。このハンカチを使ってみようかと思います。 川崎市 林様

昨日、書棚の引出しを整理していて、古くなったハンカチを見つけた。
これは、亡き母からの贈り物で、捨てられずにしまって置いた物だ。
あれからもう何年になるだろう。
福島の高校を卒業して集団就職する際に、母が手作りの布団の中に、若干のお菓子と共に、そっと忍ばせてくれていた。
汗掻きの午年の息子のために、手縫いで親子馬の刺繍がしてあった。
今は色あせてしまったが、人生の荒波を俺の人生と共に歩んできた。
挫折しそうになった時、嬉しかった時、そして悲しい母との別れの時も、いつもズボンのポケットにあった。
何時の頃からか忘れてしまったが、捨てることが出来ず、引出しに大事にしまって置いた。
これからも、人生の想い出と共に、そっとしまって置こう。 川崎市 吉田様

かわいい赤ちゃんが生まれた友人にどんなものをプレゼントしたらいいかと悩んだ時に、とてもやわらかくて、洗うほど肌になじむというハンカチをプレゼントした。
赤ちゃんのよだれでも汗でもなんでも沢山吸いとってくれそうなハンカチ。
時にはママの汗や涙も拭くことになるかもしれないけれど、どんな時でも優しい気持ちになれますようにという思いをこめて、、、。 川崎市 中桐様

私には、二人の娘がおります。2年前に下の娘が就職して初めてのお給料で、家族全員にそれぞれイニシャルが織り込まれたハンカチをプレゼントしてくれました。そのまっ白いハンカチはあまりにも清楚で凛としていたので、汚れを拭く目的のために使うのはもったいなくて、リボンのついた箱ごとずっと引き出しにしまったままになっていました。 今秋、上の娘が結婚することになりました。花嫁の父として、モーニングのポケットにそのハンカチを忍ばせていきたいと思っています。 うれし涙を拭くためなら、遠慮なく使うことが出来そうな気がするからです。 川崎市 林様

数年前に友達にひょうがらのハンカチをもらったのですが、あまり好きではなかったので、実家の母にあげると色あせたそのハンカチをまだ大事に使っています。
そんなに気に入っていたのね。
関西のおばちゃんはやっぱりひょうがらが好きなんだ…と確信しました。 神戸市 小林様

子供が小さい頃、公園に行くときに毎日のように使っていた今ではもうボロボロになったくまさんのハンカチ。あの頃は、育児にいそがしくていつも同じ3枚ぐらいのハンカチを交互に使っていました。手を拭くだけでなく、汗や泥や鼻水や涙を拭いたり大活躍してくれました。なかなか捨てられず、タンスの奥にしまいこんでいました。見るたびにあの頃の公園の風景が頭に浮かんできて懐かしい気持ちになります。まだ捨てられそうにありません。 神戸市 美保様

小学校の頃、ピアノを習っていました。発表会の日は、ひとりずつ舞台で演奏するのですが、演奏を終わってお辞儀をすると、舞台に置かれているカゴから花を1輪取って演奏を終了しました。生花ではなく、ハンカチでできた花でした。大人になって、ハンカチ売り場でハンカチフラワーにたまたま出会い、なつかしく思い出しました。 藤沢市 匿名希望様

ハンカチ。それは人への感謝の気持ちの表れだと思う。
私は結婚前からピアノの教師をしていた。仕事柄、お歳暮を頂く事があり、その中でもハンカチを頂くことが多く、それらしき包みを開ける時には必ずわくわくと胸踊ったものだ。その方がどんな気持ちで私をとらえて下さっているのかその柄から想像したり、洋服では着ることの出来ない色鮮やかな世界を楽しんだりしたのものだ。私もお世話になった方に御礼をという時、ついハンカチを選んでしまう。相手の方の心に負担をかけず、最大限に感謝の気持ちを表すには最高の贈り物だ。
今では男の子二人の母となり、いざという時のために、すっかりタオルを持ち歩くようになってしまった。下の子も小学生になったことだし、そろそろバッグにハンカチをしのばせる素敵な女性になろうかなと思う今日この頃。 松戸市 増田様

本当にハンカチが好きで好きで。
たくさんの良い思い出がつまった布たちがいっぱいあるのです。
その中の 淡い水色の蝶々のハンカチは・・・。

高校の頃の友人とのおしゃべりの中で 「ショッピングに出かけて、特になにも購入しない日でも色とりどりのハンカチ売り場に行くとワクワクするし気分が明るくなるのよね」と聞いてから、 あぁ、気分転換になるのね、とハンカチに気を留めるようになりました。

高校の入学式を終えて一ヶ月くらいたってやっとクラスの緊張感も解けてなじんできたタイミングで隣の席の子に「これからよろしくね!」とハンカチをプレゼントされたのをよく覚えています。高校1年生でこんなにステキな立ち振る舞いができるなんて!?とビックリしたのも手伝って忘れられない思い出です。

そのハンカチを使うたびにステキな心遣いにホンワカした温かい気持ちになりました。 数十年たった今でもその心のこもったプレゼントに思い出すたびに感激します。

その友人は今 仙台に住んでいます。高校卒業後もずっと手紙やメールでのやりとりが続いていてありがたい気持ちでいっぱいです。東日本大震災のすぐ後になんて声をかけたらいいか分からなかったのでまず手紙と一緒に気分が明るくなるような絵柄のハンカチを同封して「そちらは大丈夫ですか?」という気持ちをこめて送りました。手紙の文面だけでなく、ハンカチの絵柄選びにも考えをめぐらせます。その後、「地震後 いろいろ大変だけど気分が明るくなるメッセージをありがとう!」とすぐに連絡をもらうことができやりとりは今も続いています。

これからもちょっと落ち込んだときや楽しいことがあったとき何気なくやりとりが続いたらいいなぁ…と思います。 ペンネーム:ヌーシャテルチーズ 様

私が小学校3年生のころのお話。
ある日学校から帰ってくるとテーブルの上に
私の大事にしているハンカチが置かれていた。見るなりガ~~~~~~ン。。。。。。。(ショック、凹む)

油性ペンでガッツリ…手慣れない不揃いな文字で「妹の名前」が書かれていた。(この時、妹は小学1年生)

私:「何これ!?」
妹:「お母さんが自分の持ち物に名前をきちんと書きなさい って言ったの。」
私:「なんで私のお気に入りのハンカチにあんたの名前書いちゃうのよ!!」
妹:「出してあったからいいかなぁ、と思って・・・」
私:「何もわたしが一番大事にしているハンカチにこんな事しなくたっていいじゃない。うわ~ん(大泣)」

そこで、対応に困った母親は・・・・
その宝物級に大事にしていた、カラフルな可愛いイラスト入りのハンカチを躊躇することなく強力ブリーチ(漂白)してしまったのだ!?
結果、下手くそな文字の妹の名前は薄くなったが、可愛いイラストはもっとも~っと薄くなり水墨画ハンカチみたいになってしまったのだった。もうまったく違うものと化してしまった。
母は、「ハンカチは他にも何枚か持ってるじゃない、そんな騒がなくても、手は拭ける!」と言い張るのですが、私のダブルショックは今も強烈なイメージとして脳内に記憶されている。

ふつう、ここで親もしょうがなくも新しいのを買ってくれたりするのでしょうが、そういう楽しい思い出は付随せず・・・。
なんとなく当時のハンカチは捨てられず、今も取っておいて手元にあるのだった。
でも、ここで打ち明け話を聞いてもらったから「ハンカチ事件」も無駄じゃなかったかな~なんて思います。 ペンネーム:クララ 様

仕事の研修ではじめて東京に。研修後、青山通りを散歩。その時見つけたハンカチ、色違いで2枚買いました。
まわりに五線譜に音符。あとは青とオレンジの縁取りのもの。いたってシンプル。私のお気に入りとなりました。
その後、中国に旅行にいった時お世話になった方に、オレンジはお嫁入り。青は私のハンカチとして今も手元にあります。もう一度出会いの青山通り、中国へ行きたいです。 遠藤 様

やっと就職ができ、働き始めた私。
でも世の中甘くない。
思うように仕事はできずにいた私の楽しみは、給料日、好きなハンカチをゆっくり選び、購入。(パステルカラーの明るいもの、チェック柄のもの、迷いに迷って)そんな時間は夢が広がります。そんな繰り返しが続きました。心が癒されて、また1ヶ月働く元気をもらっていました。
そして、今では、いっぱいのハンカチに囲まれてしあわせです。 遠藤 様

保育園の卒園記念に、描いてもらったハンカチ、20センチ弱の小さなハンカチ。
もうひと踏ん張り頑張るぞ!と元気をくれます。
(50歳をこえても頑張る保育士) 遠藤 様

小学校の頃の思い出です。確か….昭和35~36年頃のことだったと思います。
‘バレリーナ’のシリーズで可愛い素てきなハンカチーフが販売されていました。色味は(バッグの色ですが…)淡いパープル、ピンク、グリーンとどのハンカチも優しい色づかいで素てきでした。使うのは、少し惜しいような…額に入れて飾っても素てきかなぁ…と思う少女(バレリーナ)の絵でした。
余談になりますが…たしか..作家は…高橋まこと氏(画)でした。昭和32年頃の小学生向きの雑誌の掲載漫画 ’あこがれのつばさ’の作家の作品でした。スチュワーデスにあこがれる姉とその妹(主人公は妹・小学生)の物語でした。目がパッチリと大きく可愛しい、きれいな少女絵でした。’夢とあこがれ’の気持ちもおおらかに、明るくしてくれました。 森谷 様

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