ハンカチーフについて ハンカチーフについて

 

ハンカチーフが登場する映画や文学

『荒野の決闘』

1946年 アメリカ映画
『駅馬車』と並んで名作の誉れ高いジョン・フォード監督の西部劇、『荒野の決闘』。題名だけを聞くとなんだか活劇のようですが、実はそうではありません。原題は、主題歌を聞けば誰でも頷く、あの『MY DARLING CLEMENTINE(いとしのクレメンタイン)』 です。クレメンタインは、ヘンリー・フォンダ演じるワイアット・アープが一目ぼれしてしまう女性の名前ですから、これはラブストーリー絡みの西部劇なんですね。
お話は、西部史でも有名な、アープ兄弟とクラントン一家のOK牧場での対決に材を取ったものですが、このクライマックスの決闘シーンに、ハンカチーフが重要な小道具として登場します。
トゥームストンの町で保安官となったアープは、この町の賭博師ドク・ホリデーとしだいに友情を深めていきます。さていよいよクラントン一家との決闘となったときに、ドク・ホリデーが助太刀をしてくれるのですが、ドクは突如喀血し、その吐血をハンカチーフで押さえているうちに、ドクは敵に撃たれて死んでしまいます。 決闘が終わったあと、誰もいなくなった牧場の柵に、血に染まったハンカチーフだけがポツンと置き去りにされていたシーンは、西部の男の悲しみや哀愁を象徴した一コマとして、心に残る名場面となっていました。

『ナイル殺人事件』

1978年 イギリス映画
1974年の『オリエント急行殺人事件』に続き、英EMIが製作したアガサ・クリスティー原作(『ナイルに死す』)によるミステリー映画の第2弾です。ご存知ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロを『スパルカタス』のピーター・ユスチノフが演じ、当時大ヒットとなりました。
このポアロ探偵、体型は太っちょなのですが、なかなかのしゃれ者。黒のフォーマル・スーツにタイ調のプリントのハンカチをチラッと胸ポケットからのぞかせたりしています。『ナイル殺人事件』では、赤インクを塗ったハンカチを犯人がアリバイ工作に使うなど、ハンカチがどんでん返しの仕掛けにもなっていました。

『幸福の黄色いハンカチ』

1977年 日本映画
タイトルにずばりハンカチーフを取り上げた作品といえば、1977年公開の日本映画『幸福の黄色いハンカチ』が思い出されます。元々はピート・ハミルがNYポスト紙上に掲載した短いエピソードが原作で、これをもとにつくられたのがトニー・オーランド&ドーンの全米ナンバーワンヒット曲「幸福の黄色いリボン」です。 『幸福の黄色いハンカチ』は、同じ設定でリボンをハンカチーフに替えて翻案したものです。主人公は刑務所での6年の刑期を終え、妻のいる北海道へと帰還しようとしている男で、これを高倉健が演じています。
主人公は帰還に当たって、妻に「もしきみが再婚していたら、自分は黙ってどこかに去るだろう。だがもし今も自分を待ってくれているのだったら、家の前の物干し場に黄色いハンカチを出していて欲しい」と、手紙を書きます。
果たして家に着いて見ると、一枚どころか、無数の黄色いハンカチーフが青空にはためいるのを目にし、主人公は変わらぬ妻の愛を確認するというお話です。ここではハンカチーフは、日本的な別れの涙ではなく、溢れんばかりの喜びの道具として使われています。その場合、やはり色は、白ではなくて黄色がいちばん似合っているような気がしますね。

『乱れ雲』

1967年 日本映画 『乱れ雲』は名匠成瀬巳喜男監督の遺作となった傑作メロドラマで、成瀬監督にしては珍しいカラー作品です。交通事故の被害者の妻(司葉子)と加害者(加山雄三)が、憎しみと愛情のはざまで揺れる姿を丹念に描い作品で、音楽を武満徹が担当しています。
この中で、ハンカチーフが面白い使われ方をしています。加山雄三扮する三島史郎は貿易会社に勤める実直な会社員。彼には、常務の娘である恋人(浜三枝)がいて、彼女には自分のアパートの鍵を渡しているという仲。その二人の関係が、三島が起こした死亡事故によって怪しくなってしまいます。
恋人はいつものように三島が帰宅する前に室内に入り、掃除と洗濯を終えています。その洗濯が、たまたまその日は洗面器で洗ったハンカチーフ一枚なのです。そして彼女は、洗ったハンカチーフを、窓ガラスにぴったり貼り付け乾かそうとします。こうするとアイロン掛けの手間が省けるわけですね。一種の生活の知恵です。この時のハンカチーフ一枚は、かつては親密であったけれども、今は薄くなっているという二人の関係を象徴しているわけです。
さてこの映画の中で、男性たちは押しなべて、スーツの胸ポケットにハンカチーフをきちんと納めています。今よりもずっとダンディなのです。色は白で一文字折りがほとんど。中には二山折りの人も見られます。映画の中にここから取り出したハンカチーフで首を拭う動作もあるので、この年代ではまだ胸ポケットは、実用を兼ねたハンカチーフの納め場所だったのでしょう。
そうした習慣がしだいに消えていったのは、どうやら70年代に入ってからのようです。見た目に美しいこうした習慣は、復活していって欲しいものですね。

『父と暮らせば』

2004年 日本映画
『父と暮らせば』の原作は、井上ひさしの同名戯曲で、舞台での初演は1994年です。広島で原爆を体験したある一人の娘と、幽霊になった父との被災3年後のお話です。
主人公の美津江(宮沢りえ)は、原爆でたった一人の肉親である父(原田芳雄)を失い、一人暮らしをしながら図書館に勤めています。そこへ原爆のことを調べている青年(浅野忠信)が現れ、二人は互いに好意を持つようになります。ですが美津江はどうしても青年の愛を受け入れようとはしません。
彼女は、父や学友を亡くし自分だけが生き残ったということに後ろめたさを感じており「うちは幸せになってはいけんのじゃ」と思っているのです。それを、父親が幽霊になって出てきて、娘が幸せになれるようにと、あれこれと世話をやくのです。
その中でハンカチーフが登場します。相手の青年にお土産として渡すようにと、父が「じゃこ味噌」を作って小さな壷に収めます。その時、娘にハンカチーフを出させてその壷を包むのです。「男ってのは、女のハンカチにごっつう弱いんじゃ」と父が言います。
美津江が差し出したハンカチーフは、肌色の地に小さな赤い花をあしらったものでした。そこに彼女の性格と思いが表現されています。
でもそのハンカチーフで包んだ「じゃこ味噌」は、青年に渡ることなく戻ってきてしまいます。彼女のためらいが、戻ってきたハンカチーフに暗示されているのでした。

『アイヴァンホー』

ウォルター・スコット(イギリス)1771~1832
サー・ウォルター・スコットは19世紀を代表するロマン派の作家で、この『アイヴァンホー』は歴史小説の傑作と言われています。 舞台は12世紀のイギリス。主人公のアイヴァンホーは、「獅子心王」の異名を持つリチャード一世(在位1189~99年)に仕える騎士で、このアイヴァンホーとロウィーナ姫とのロマンスを中心に、リチャードが変装する黒衣の騎士やロビンフッドなども登場して、痛快無比の騎士道物語が展開されます。
この中に、馬上槍試合(JOUSTING)を描いた場面があります。ジュースティングというのは鎧兜を着け、馬に乗った騎士が一対一で向かい合い、すれ違いざまの一瞬の攻防で勝負をつける試合のことです。たぶん映画などでご覧になったことがおありでしょう。この試合で勝利を収めたアイヴァンホーに対して、こんな描写がされています。

「女性たちは、絹のハンカチや刺繍をした顔帛を振った。身分の高いものも、卑しいものも、みんな声を合わせて、よろこびの叫びをあげた」

ウォルター・スコットは19世紀の作家ですが、中世に対しては百科事典的な知識の持ち主として知られていました。ですからこうした描写から、12世紀にはすでに絹製のハンカチーフが、若い男女の愛情表現として使われていたと考えられます。

『三銃士』

アレクサンドル・デュマ(フランス)1802~1870
『三銃士』は『モンテクリスト伯』『王妃マルゴ』などでも名高いフランスのアレクサンドル・デュマの作品。
17世紀のフランスを舞台にし、アトス、ポルトス、アラミスの三銃士とダルタニャンとが、陰謀と権謀術数の渦巻くなかを泳ぎ渡ってゆく痛快、汗握る冒険活劇です。 この中に、貴婦人から愛の贈り物としてハンカチーフを贈られたアラミスが、恋人との仲を疑われてごまかす場面が、面白おかしく描かれています。
「ハンカチは実際見事な刺繍がしてあって、一方の角には、王冠の印と紋章がついていた。『このハンカチは、私のものではない。(中略)嘘でない証拠にこの通り、衣嚢(かくし=ポケット)に自分のが入っている』アラミスはこう言いながら、自分のハンカチを取り出した。これもまたなかなか優雅なもので、当時は珍しいものとされた白麻製だったが、刺繍も紋章もなく、ただ持ち主の頭文字がひとつついているだけだった」
この記述からしますと、当時のハンカチーフにはまだ白麻製のものが少なく、絹やレースのハンカチーフが多かったことが解ります。また貴族社会の男女が用いるハンカチーフには、自分の紋章やイニシャルを刺繍するのが通例だったようです。

『オセロー』

ウィリアム・シェイクスピア(イギリス)1564~1616
『ハムレット』『マクベス』『リア王』と合わせ、シェイクスピアの四大悲劇の一つといわれる『オセロー』。この劇の中では、ハンカチーフが悲劇の元となる重要な小道具として登場します。
ムーア人の英雄オセロー将軍は、若くて美しい妻デズデモーナに、母の形見であるハンカチーフを贈ります。ところがこのハンカチーフは、オセローの母がエジプトの魔女から貰ったといういわくつきのもの。
そんな大切なハンカチーフを、デズデモーナがうっかり落としてしまうのです。これを手に入れたのが、かねてからオセローに恨みを持っていた部下のイヤーゴです。狡猾なイヤーゴは、そのハンカチーフを自分のライバルであるキャシオーの部屋に置き、デズデモーナが浮気をしたように見せかけるのです。
嫉妬に狂ったオセローは、デズデモーナを殺害。しかし後にそれが誤解であったことを知り、最後は自害してしまうというお話です。
『オセロー』が初演されたのは1682年ということですが、オセローの台詞から推察すると、問題のハンカチーフは乙女の血の色をした絹製の縫い取り入りだったようです。

『マリー・アントワネット』

シュテファン・ツバイク(オーストリア)1881~1942
『マリー・アントワネット』は絶対平和主義者として知られたオーストリアのユダヤ系作家シュテファン・ツバイクの作品。もしかしたら児童文学としてリライトされた『悲しみの王妃』を小学生時代に読まれた方がいらっしゃるかも。
フランス革命当時、断頭台の露と消えたマリー・アントワネットの生涯を、フェルゼンとの恋をからめて描いた作品ですが、日本ではこれを下敷きにした池田理代子さんの漫画、『ベルサイユのばら』の方が有名ですね。
この小説の中に、王妃が朝、起床してから身支度をするまでの様子が、こと細かに描かれているシーンがあります。
「衣装室を差配する侍女頭が、わきに主席侍女を従えて、朝の衣装に必要な肌着やハンカチなどを持って入ってくる。(略)マリー・アントワネットは、きょうはどの婦人服を着るかを決定しなければならない。(略)見えざる兵器廠からは、モーニング・ドレス、胴衣、レースのハンカチ、襟巻き、婦人帽、マント、飾帯、手袋、靴下、下着類などが続々出される」
これを読むと、当時の貴婦人たちは朝の起床のときに用いる実用のハンカチーフと、盛装をしたときのレースのハンカチーフの二種類を使い分けていたことが解ります。

『ガリバー旅行記』

ジョナサン・スウィフト(イギリス)1667~1745
『ガリバー旅行記』には、ハンカチーフの話がしばしば登場します。というのも、スウィフトはハンカチーフの熱心な蒐集家(しゅうしゅうか)だったのです。 最初に行った小人国ではこんな具合です。小人たちに捕らえられたガリバーは、体中をいろいろと調べ上げられます。

まず、この巨大な人間山の上衣の右ポケットを厳重に検査したところ、ただ一枚の大きな粗布を発見した。大きさは宮中、大広間の絨毯ぐらいの大きさである」

反対に巨人国では、巨人がポケットからハンカチーフを取り出し、ガリバーを包んでしまう描写があります。
これらを見ると、18世紀には、男性のポケットにハンカチーフが入れられ、広く使われるようになっていたことが解ります。実は男性の服にポケットがついたのは17世紀になってからなのです。それまでは、ハンカチーフは手に持ったり、腕に掛けたりしていたようです。ちなみに当時のハンカチーフの大きさは25インチ四方だったといいますから、日本の風呂敷サイズの布を、常時ポケットに忍ばせていたわけですね。

『シャーロック・ホームズの冒険』

コナン・ドイル(イギリス)1859~1930
シャーロック・ホームズといえば、耳覆いの付いたツイードの鹿撃ち帽子(deerstalker)をつい思い浮かべます。が実はこの格好、作者のコナン・ドイルが考え出したものではないということはご存知でしたか。
「ホームズ」シリーズの最初の著作『緋色の研究』が発表されたのは1887年でしたが、この作品は発表当時それほど評判にはなりませんでした。その後ドイルは冒険小説などを発表したりして、試行錯誤を繰り返します。
転機が訪れたのは1891年。「ストランドマガジン」(Strand Magazine)の要請を請け、ホームズものの一連の短編を発表したところ、瞬く間に大変な人気となったのです。その人気に大きな貢献をしたのが、挿絵画家シドニー・パジェット(1860年~1908年)が描いた挿絵でした。今日イメージしているホームズ像は、実はこのパジェットによって形づくられていったものなのです。
バジェットの挿絵には、当時の英国紳士の服装が描かれています。これを見るとホームズはしゃれたフロックコートを着込み、襟元には黒い蝶ネクタイをして、共布らしいハンカチーフを胸ポケットからのぞかせています。
背広やコートが今日のようなスタイルになったのは19世紀に入ってからですが、比較的早い時期から、胸のポケットにハンカチーフをのぞかせることも紳士の大切なおしゃれになっていったようです。

『不如帰(ほととぎす)』

徳富蘆花(日本)1868~1927
コナン・ドイルと同じ時期の明治時代に生きた作家に、徳富蘆花がいます。『不如帰』はその徳富蘆花が明治27年に発表した作品で、新派の当たり狂言として、花柳章太郎と水谷八重子によって何回となく上演され大好評を博しました。
この中にハンカチを振って別れを告げるという名場面があります。これが<ハンカチは別れを告げるためのもの、流れる涙を拭うもの>という日本的な使われ方をした、おそらく最初であったと思われます。
『横浜記』という書物によると、日本でハンカチーフが使われだしたのは明治11年(1878年)頃。明治19年には、女学生の間で首にハンカチーフを巻くのが「困った風潮」として流行したといいますから、この頃はまだ鼻をかんだり口をぬぐったりする西洋人のハンカチーフの使い方が、日本人にはよく解っていなかったのでしょう。そのため、『不如帰』に見られるような、日本オリジナルの使い方が育っていったようです。

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